先日電車に乗っていたら、目の前にキレイな女性が座りました。
ちらっと見ると、きれいめブルージーンズに、同色のパンプス、
ポンチ素材のちょっとエッジの効いたトレーナーに、
プラダのバックで、顔もとってもキレイにお化粧されてて可愛らしく、肌もキレイ。
髪も十和子さんのように、くるくるキレイに巻かれていて、
30代前半の若い方なのかな・・・・・・!
ハイヒールから覗く足首の肌が、アラフィフな!
よく見ると(見るなよ!)確かに皮膚の感じとか、髪の生え際とか、
こう、隠しきれない年齢が・・・いやでも、お見事!スゴイ若く見えた!
そこで感じてしまったのは、そこまで無理をしなくてもいいのに・・・的なこと。
そんなに若く見せようとしなくても、十分素敵な方なのに。
多分、いろいろお金と時間をかけて、若い肌を保っているんだろうなぁ。
いつまでも若く美しくいたいという気持ちは櫻田にもあるけれど、
なんだかやり過ぎはな・・・というのを感じました。
なんて言うんだろう、こう、自分の本来持っているものから、
もの凄く遠いところに目標を設定している感じ、っていうのかな。
そういうのって、何か不協和音っていうか、違和感を発している気がする。
#今日はダラダラと長い自分語りです。
★
振り返って、自分のことを考える。
例えばヒールの高い靴。
結局ショートブーツは身長アップ効果が譲れなくて、
8cm程度のヒールの高いものを購入した。
そんなに足が短いのってダメなのかしら。
そんなに背が低いのってダメなのかしら。
「絶対背が高い方がいい、足が長いことが正義!」
って感じの頭になっちゃってる自分。
確かに背が高い方がバランスよく見えるけど、
見た目じゃないところの、違うところのバランスが崩れてないだろうか?
本来なら2,3センチのヒールの方が身体には良いはず。歩きにくいのになぜ履くの?
ペタンコ靴でもバランス良くできるって言うけど、
ペタンコ靴でもバランス良く、という発想そのものや、そのテクは、
足は長く見えた方がバランスがよい、という価値観に基づいたもので、
櫻田が違和感を感じるのは、その価値観そのものなんだよね。
すごく、すごく、根本的な価値観のところで、
自分が自分から遠い方向に向かっているような気がしてならない。
自分が本来持っているものから、もの凄く遠いところに目標を設定している感。
資本主義社会では消費を煽らなきゃいけないから、人が本来持っているものから、
もの凄く遠いところに目標を設定するように、メディアは煽るんだよね、しょうがない。
叶姉妹(結構好き)のように遠過ぎると煽られないけど、
読モって、その辺の距離感が絶妙だよね・・・って横道それた。
目元のメイクでもそう。自分からもの凄い遠いところに目標設定してる感。
ケアプロストを使ってまつげを伸ばして色素沈着したり、
アイラインでかぶれたり、エクステして痒くなったり、
シワが増えて二重になって喜んだり、マスカラ塗り過ぎてパンダになったり、
目を大きく見せることが、そんなに大切なんかい・・・
だってー目大きいほうがかわいいじゃん!(という刷り込み)
目に見える無駄毛をほぼレーザーで処理したこととか、
毛穴をレーザーで焼いたりすることとかも同じ感じ。
特に、ミクロの視点を持ち過ぎる傾向があってね・・木を見て森を見ず。
そんなに自分は、自分の一部は、とうてい受け入れがたいものであって、
テレビの中の芸能人や、雑誌の中のモデルを究極の目標に置いちゃって、
(それも、その理想像とされるものは、常に変わって行くシステム)
一生自分に不満を持ち続け、それをどうにかしようとお金や時間をかけ、
冒頭の女性のように、周囲から見ると、そこまでしなくても・・・てなるのかなぁ。
何だろう、突き詰めると女装や男装の違和感に近いものがあるような。
何か自然の摂理に大きく反している自分を感じて、何かおかしいなと思いながら、
でも、ぼーっとしてても美人な人とは違うんだから、無理しなきゃいけないよね・・
あ、そこから発想がダメだよね。でもそんな無理してる訳じゃないし、いやしてるか、
オシャレや美容は基本的にしたいからしてるんだし。。。
だったら日本人の特徴が活かせる着物でも着ればいいじゃんとか、
身体が楽な森ガールスタイルにすればいいとか、一切のメディアを遮断すればいいとか、
そういう話でもなく・・・
何となく感じるこの違和感は、時々オシャレや美容が面倒くさくなる自分を正当化したいだけなのか。
こう、シャネルが欲しいけど買うお金がないからシャネルやハイブランドをバカにしておくとか、
東大に行きたいけど行けなかったから学歴社会を否定しておく、みたいな心理か。
★
自分に自信があって、自分に軸があれば、本来の自分から遠く離れて目標を置いたりしないよね。
っていう、ありがちな結論で終ることもできるけど、なんかそれもしっくりこない。
ああ、そうですか、正論ですね、っていう気がしてしまって、
結論を言った前と後で、自分の中で何も変化が起こらない。
★
で、あんまり考え過ぎると、記号論とか、心理学とか、哲学とか、そういう方向へ・・。
そうだ、読もうと思っていた、鷲田先生の二冊を読んでみよう。
鷲田先生の本は難しいのが多いけど、一般人向けの易しく書かれたものもあってありがたい。
最後の一文に膝を打ちまくりました。著書を読む前になんだけど。
そうだ、永遠に一致しないんだ!永遠に美人になれないんだ!(笑)
確かにそのズレに人間味が出るんだろうなぁ。
ズレが小さい人は安定していて(バッハ君)大きい人は不安定で(櫻田)
多分、ズレが大きくなり過ぎるとそれはストレスになり精神に異常を来すだろうし、
その完全な一致を追い求め過ぎれば「永遠に一致しない自己」は人間存在の本質なのだから、
ゴールは永遠になく、激しくストレスになり、精神に異常を来すのだろう。
例えば美人になり、例え毛穴が小さくなっても、
こんなんじゃまだまだって、ゴールをもっと遠く設定するだけだろう、櫻田の場合。
そのズレにこそ櫻田こずえの本質があるのでは?
ズレをどうにか縮めようとするのがこのブログであり、毛穴ブログなのか?
だからストレスを感じるのか?
ズレがなくなることはあるのか?それは櫻田の終了?いや、永遠に一致しない・・・
追いかけると消えてしまう蜃気楼なのか?←ちょっとおかしくなってきた
櫻田は毎日のように自分の写真を撮ってブログにアップしてそれを見ているけれど、
それが与える精神的な影響って、大きい気がします。
観念上の身体と、実物とのズレを、日々感じさせられる日々。
鏡の中の自分と、iPhoneに写った自分と、ブログにアップされた自分は、それぞれ違う。
さらに、実生活の自己と、ブログの中の自己と、読者の方が持つ櫻田像と・・・
あーヤバいヤバい、考え過ぎるとヤバい。
ほどほどに考えて、ほどほどに生きよう・・・
アラフォーですがほどほど美人になれますか?
まあ、ぼちぼちやって参りますかね←それが結論かよ。うん、そういう感じがいいと思う。